角田光代著「紙の月」(ハルキ文庫)

2018年9月21日

角田光代著「紙の月」(ハルキ文庫)

紙の月・画像

角田光代著『紙の月』を読みました。宮沢りえ主演で映画化にもなってますね。この作家の作品は何作か読んでいますが、心理描写が極めて精度が高いというか、実にうまいです。

彼女は1990年「幸福な遊戯」で海燕新人文学賞を受賞してデビュー。04年「対岸の彼女」で直木賞、06年「ロック母」で川端康成文学賞、07年「八日目の蝉」で中央公論文芸賞、本書で柴田錬三郎賞。「八日目の蝉」については、映画も観ていますが、感動的で思わず泣いてしまうシーンがありました。

さて、本書はこんなふうに、紹介されています。

「ただ好きで、ただ会いたいだけだった――わかば銀行の支店から一億円が横領された。容疑者は、梅澤梨花四十一歳。二十五歳で結婚し専業主婦になったが、子どもには恵まれず、銀行でパート勤めを始めた。真面目な働きぶりで契約社員になった梨花。そんなある日、顧客の孫である大学生の光太に出会うのだった……。あまりにもスリリングで、狂おしいまでに切実な、傑作長編小説。各紙誌でも大絶賛された、第二十五回柴田錬三郎賞受賞作、待望の文庫化」

本作は、主人公の梨花が年下の男に金を貢ぐために、銀行で横領を繰り返すというお話です。(かつてこのような横領事件が実際にありましたが)
それにしても、作家角田光代の描写力に圧倒されます。彼女の文章表現は、凝り過ぎることなく、巧みで、それでいて、薬味の効いた技巧がアクセントになっていて、読みやすいです。

書き出しは、こんな感じ。

【人がひとり、世界から姿を消すことなんてかんたんなのではないか。
タイのチェンマイに着いて数日後、梅澤梨花は漠然と考えるようになった。
姿を消す、といっても死ぬのではない。完璧に行方をくらます、ということだ。そんなことは無理だろうとずっと思っていた。思いながらこの町までやってきた。】

梨花は、光太に大量の金を貢ぎ、それが発覚してタイに逃亡する。結局は最後に逮捕されるわけですが、逮捕のシーンもしっかり描かれています。でも、描き方が秀逸で、警察官の男が前から歩いてくるのですが……。

【そうしてある日、それは唐突にやってくる。ゲストハウスの暗い入り口から、強烈な陽射しのなかに踏み出したとき、こちらに向かって歩いてくる男が梨花の目に入った。半袖シャツのグレイのズボンのこざっぱりした男が、陽炎に揺れながら歩いてくる。梨花を見ている。微笑んでいる。この国の人はだれでも微笑む。外国人と目が合っただけで微笑む。あの人もそうだ。私に用があるはずはない。通り過ぎていくだろう。梨花は思うが、けれど立ち止まった足が動かない。
 ご旅行ですか、と、今や目の前に立つ男は訊く。流暢な日本語だが、明らかにタイ人である。
 ええ。梨花は笑っている。
 パスポートを拝見させてもらってもいいでしょうか。男はにこやかに言う。
 ああ、きた。
 心の奥底で、そんな自分のささやきが聞こえる。ここまでだ。これで終わりだ。(以下略)】(本文から)

パスポートを取り出して男に渡すのですが、その先のことは一切書かれていません。この男が刑事なのかも記されてはいませんが、捕まったんだな、というのがわかる。

印象に残るシーンです。「ただ好きで、ただ会いたいだけだった」。梨花の光太に対する思いは、ただそれだけ。でも、この気持ちは恋愛の真実だと思います。

この前、不倫劇を描いた映画『昼顔』を観たんですが(2014年放送のドラマ『昼顔〜平日午後3時の恋人たち〜』の続編)。笹本紗和(上戸彩)と北野裕一郎(斎藤工)の不倫映画です。内容は省略しますが、上戸彩演じる紗和が魅力的で、しかも、彼女も不倫相手の北野に対し、「ただ好きで、ただ会いたいだけ」なのですね。最後はあまりにショッキングな結末でしたが……。

不倫の結末は、やっぱり悲しいもの。それが心を打つのです。
(北代靖典)

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